日記

40代独男、転落の軌跡

12月1日(水)

◯6時起床、17時退社。

◯仕事。暇。

◯短編小説「中敷きの女」。

 100円ショップでアルバイトをしていたとき、客に、定期的に靴の中敷きを買っていく女がいた。身長が低く痩せっぽちで、悪い意味で妖精のような顔立ちをした、髪を後ろにひとつ縛りにした女だった。女が決まって買っていくのは紙(ダンボール)で出来た中敷きで、何故かそれを好んで買っていた。かごの中には他の商品も入っていたが、その中敷きの印象が強く、バイト仲間は「中敷きの女」と呼んでいた。

 バイトの帰り道でその女を見かけたこともあった。古いブリキのおもちゃのような背筋をピンと伸ばした格好で自転車に乗っており、服は作業着みたいに地味で、身体が小さいぶん自転車が異様に大きく見えて、とても滑稽だった。あの自転車で勤め先まで行き、例の中敷きを入れた靴を履いて働いているのか。おそらく工場(こうば)の立ち仕事で、ろくな給金も貰えず、たまに100円ショップで散財するのが楽しみなんだろう。そんな中敷きの女の足。あの足はこの先一生、赤いヒールを履くこともなければ、お洒落なレストランの敷居を跨ぐこともないんだろう。

 そう思うと女が酷く不憫に思えた。そして怒りの感情が生まれた。誰の何に対してではなく、それは「自分ならこの女を幸せにしてやれるかもしれない」と思った己に対してだった。

 男は女を呼び止め、実は前からあなたのことが気になっていた、今度一緒に食事でもと誘う。初めてのことに女は戸惑いその場を去るが、また中敷きを買いに行った店に男はいて、女を誘う。何度断られても誘う。女はからかわれているんだと思いつつ、男のことが気になってくる。やがて女は中敷きを買いに来ているのか、男に会いに来ているのかわからなくなる。そしてこれは運命なのかもしれないと思い始めたころ「一度だけなら」と男の誘いに応じる。

 連れて行かれたのは海の見えるホテル最上階にあるレストラン。女は母が父との初めてのデートで身に付けたワンピースを着て少し大人になった気がした。しかし初めて使うナイフとフォーク。悪戦苦闘する女を見た男は店員に「箸を」と告げる。赤面して下を向く女。その耳に「2膳お願いします」という男の優しい声が聴こえる。食事が終わると「下に部屋をとってある」と男。先程箸を頼んでくれたときとは違う低く力強い漢(おとこ)の声。女は息を呑む。飲み慣れないアルコールといつか見たドラマのような展開に、女は静かに身を委ねた。

 翌日、いつものように工場の流れ作業に従事しながら女は昨夜の出来事を思い出す。とても幸せな、生まれて初めての最高の時間。そうだ、今日も帰りに中敷きを買いに行こう、あの人に会いに行こう。自転車を走らせ訪れた100円ショップ。レジに男の姿はない。女は騙されたんだ、やっぱり夢だったんだと涙を流す。こうなることはわかっていた、私なんかが幸せになれるわけがない。涙を拭いて、せめて中敷きだけは買っていこうと売り場に行くと、いつもはフックいっぱいにかかっているあの紙の中敷きがない。どうして、どうして、神様、あなたは私から希望だけでなく、中敷きまで奪うの。再び溢れ出す涙。嗚咽を堪え下を向く耳に「お客様」と誰かの声。いや、誰かではない。この声はと振り向くと、男が花束のように紙の中敷きを両手いっぱいに持って立っている。「お探しの品はこちらですか?」

 あれから三年。俺は中敷き女との付き合いは続け、来月結婚することになった。先日訪れた中敷き女の実家で、中敷き女によく似た両親は「孫の顔が早く見たい」と言って笑った。俺は子供が出来たらこんな顔で産まれてくるのかと思った。中敷き女は「お父さんたら気が早いよ」と笑った。中敷き女は俺と付き合うようになってから笑うようになった。よく喋るようになった。初めは何をするにも、すいませんすいませんと肩を窄めていたのに、最近は何事にも堂々としていて、勤め先のおばさんたちにも「なんか変わったね」と言われるのだと満更でもない顔をした。そしてお洒落にも興味を持つようになり、紙の中敷きを買わなくなって、中敷き女は中敷き女ではなくった。